年間の主日  2012年 B年  12〜22



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第13主日から 22主日まで




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       年間第13主日B年   201271日   グイノ・ジェラール神父

      知恵1,13-15 2,23-24  2コリント8,7 9 13-15 マルコ5,21-43

    イエスは言葉と行いによって命を与えるために、神に遣わされた救い主です。 病と死の力が地上を支配する事を 神は許しません(知恵1,13-14)。 イエスの言葉と行い、またご自分の内に 効果的に働く命の力が それをはっきりと示しています。 ですが、具体的に働くために この命の力が信仰を要求します。 しかし、時々、興奮しているイエスは 信仰のほんの少しのしるしを求めずに 感情的に奇跡を行います。 普通、信仰を持って、イエスに触れるだけで 人が癒されます(マタイ14,36)。 更に ある時には、特に異邦人の解放と癒しに対して イエスは遠く隔って奇跡を行います。

   今日の話では、群衆はイエスに押し迫って全ての人々がキリストに触れますが、ただ一人の女しか癒されませんでした。 この人は ヤイロの娘が生まれた時に病気になりました。 12年前から出血病のせいで、彼女は社会生活から追い出されています。 不潔な者として 彼女は人々との接触が 律法によって許されていないし、また神殿や会堂に行くことも禁止されていました。 皆から見捨てられたこの婦人は、非常な貧しさの中で生きるために闘っています。 彼女の最後の希望はイエスだけです。 そこで彼女は 禁止されていた物事を全て無視して、群集の中に入ろうとします。 自分の体の弱さにも拘らず、また 自分を妨げる群衆にもかまわず、彼女はイエスに触れる事が出来ました。

   癒されてから、彼女は自分がしたことが 誰にも分からないと思いました。 しかし皆の前で、自分をさらけ出さねばなりません。 後ろから来た彼女が、今度は イエスと顔と顔を合わせて 彼の前で証しをする事になりました。 このイエスとの個人的な出会いによって、彼女は救いを受け 社会の中で自分の立場を取り戻しました。 特に生き返らされた彼女は、女性、妻、母として新たな命を受け取りました。 最も不思議な事は、イエスは彼女を「私の娘よ」と呼びます。 新約聖書の中で、イエスが女の人を「我が娘よ」と言うのは ただ一回だけです。 確かに、出血病の女が示した信仰によって、イエスは彼女に命を与え 彼女の父親となりました。

   12歳になったヤイロの娘は、結婚する事も、子供を産む事も出来るのです。 残念ですが、死に瀕(ひん)している彼女は明るい未来を失っています。 そこでイエスは、父親のヤイロに とても強い信仰を持つように願って、その娘を生き返らせました。当時のユダヤ人男性は、女性に余り値打ちを与えていませんでした。 イエスが実現したこの二つの奇跡によって、女性たちの立場と尊さがどれ程 重大であるかが、はっきりと示されています。 イエスは、私たちに命の美しさと価値を思い起こさせます。 命を与えるために イエスはこの世に来られました。 イエスは「命であり、復活であります」(ヨハネ11,25)

   生き返らせた娘に 食べ物を与えるように、イエスは願っています。 人に命を与える事だけでは足りないからです。 与えた命を養い強める事も 肝心です。 私たちの内に永遠の命を保つために、毎日曜日イエスは 命のパンを分かち合う事、即ち、ご自分の御体と御血を頂くように 私たちを招いています。 自分たちの内に永遠の命の賜物を受ける事は、機械的なしぐさではありません。 神は 愛の内に御自分を与えようとします。 この愛を信じる人だけが、自分の内に神の命と神の現存を受け止める事が出来ます。 出血病の女は、ある意味で泥棒のようにキリストの癒しの力を奪おうとしました。 そこでイエスは、私たちに次の事を言われるでしょう。 「神の愛を盗んではいけません。 それを信仰によって頂くのです。 そして この愛について証しするのが何よりも重大な務めです」と。

   今日もまた、イエスは御自分の神聖な命に与らせます。 病気になった時、イエスが病者の秘跡によって 私たちを癒すように、司祭がそばに来るのを、私たちは 信仰を持って願っているでしょうか? また、自分の体の回復のために、友達の祈りの支えを願う事を 恐れてはいないでしょうか? 元気になった時、あるいはいつも健康であることを、喜びのうちに絶えず感謝するために、キリストにおける信仰が 助けになっているでしょうか? 私たちを生かし、癒し、悪から救い、聖化する神の愛を 自分の周りに証しするために、持っている信仰が私たちに充分に勇気を与えているでしょうか? 最後に、私たちの信仰が、前に進む飛躍を与える希望の泉であるか、それとも 後ろへ後ずさりさせる恐れの根元となっていないでしょうか? 正直にイエスに答えましょう。アーメン。



          年間第14主日B年    201278日    グイノ・ジェラール神父

      エゼキエル2,2-5 2コリント12,7-10 マルコ6,1-6

    ナザレの人々は、非常にショックを受けました。 彼らはイエスをよく知っていたと思ったからです。 彼らにとっては、イエスはただ大工と思って 絶対に奇跡を行う預言者ではないと信じ込んでいました。 イエスご自身も ナザレの人々の不信仰に非常に驚きました。 私たちも驚いています。 というのは、 神の子であるイエスは、何でも知っていると私たちは思っていますから。 イエスは人の心を見抜いて 彼がナザレの人々に理解されない事や見捨てられる事も知っていたと 私たちは思い込んでいるからです。

   確かにイエスは神の子です。 しかし、受肉の神秘によって 彼は完全に一人の人間になりました。 イエスは人間的な状態の限界を承諾しました。 丁度私たちと同じようにイエスは、働き、疲れ、喜び、泣き、苦しみ、死にます。 イエスは、すべてを知りませんしまた、すべてが出来ません。 確かにナザレの人々の不信仰が イエスの力を奪うので、彼は奇跡を行うことが出来ませんでした。

   イスラム教の人々が イエスを信じない理由は、彼は弱い者で、自分の権力を使わずに十字架上で死んだからです。 アラブ人にとっては、イエスは 絶対に神の子ではありません。 彼らの考えでは、神の子は全能であり、失敗しないし、特に死ぬ事が出来ません。 それに対して福音家たちは、キリストの神性を証明するためにイエスの弱さと失敗を語ります。 イエスは 人間の一番下のレベルまで謙(へりくだ)って弱くて小さな人々の世話の為にご自分の力を使います。 この様にしてイエスは、罪と死に対するご自分の勝利を現わすのです。 聖パウロも、私たちが持っている弱さについて よく語ります。 神が必ず、この弱さのうちに ご自分の力を現すからです。「私は弱い時にこそ強いからです」(2コリント12,10)」とパウロはコリントの教会の人々に書きました。

   すべての預言者のように、神の言葉を聞こうとしない「反逆の民」にイエスは遣わされました。すべての預言者のように、イエスも見捨てられ殺されました。 それにも関わらず、神のすべての約束が実現されました。 それは人々が自分たちで殺した預言者は、確かに神に遣わされた者だったと知る為です。 そこで、ナザレの人々がイエスを信じるのを拒否したのは不思議ではありません。 何故なら、既にイエスの身内の人々は 「彼が気が変になったと思って、捕まえようとした」からです(参照マルコ3,21)。

   「イエスは自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1,11)」と聖ヨハネは証しします。 イエスご自身がこの事を保証しました。 「預言者が敬われないのは自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と。 ナザレの町でイエスは、悲劇的な体験をしました。 イエスの使命は、預言者たちの使命と同じように 失敗で終わります。 イエスは十字架上で死にます。 ナザレの人々の不信仰の内に、きっと 嫉妬、妬みが隠されていました。 「何でだろう? あいつには こんな事が出来るのに、どうして私たちには出来ないのか?」と彼らは考えているに違いありません。 罪の根となる妬みは、いつも神を否定するまで人を引っ張るのです。 アダムとエバの物語は、それをはっきりと思い起こさせます。

   21世紀前から、キリストの教会は、人々の否定の篩(ふる)いにかけられています。 教会が罵られ,冷やかされ、見捨てられ、迫害されています。 教皇は たえず非難されています。 特に、教皇を支える事や彼の教えを伝え知らせる事を 公に誓願した司教たちと枢機卿たちによって非難されています。 ナザレの人々の態度について驚いたイエスのように、私たちも この事を知って、非常に驚いて、躓(つまず)いているでしょう! しかし、この状況は、私たちに教会と教会を治める人々のために、諦めずに祈る力と希望を与えなければなりません。 キリストの教会は 聖なるものですから、地獄の力は教会に対して何も出来ません。 そのために ナザレの失敗の後で、イエスは直ぐに自分の弟子達を隣の村に遣わしました。 失敗と反抗は絶対に宣教師達の歩みと、彼らが伝える救いのよい知らせを妨げる事は出来ません。

   私たちも失敗のせいで、勇気を失わないようにしましょう。 神は私たちの弱さの内に、ご自分の力を充分に発揮なさる事を忘れないようにしましょう。 私たちはキリストの体であり、その体は苦しみと死に打ち勝ちました。 この体はまた栄光の内にある復活された体であり、信じる人々に神の救いと命を与えます。 私たち一人ひとりが自分のやり方と表現で、自分のカリスマを使っています。 ですから、私たちの間に嫉妬と妬みがないように、そしてお互いの非難と不信を避ける知恵がありますように。 むしろ、キリストにおける私たちの信仰と希望を 絶えず証しすることに、強い関心を抱きましょう。 アーメン



         年間第15主日     2012-7-15 年       グイノ・ジェラール神父

       アモス7,12-15    エフェソ1,3-14     マルコ6,7-13

    空の手で弟子たちはキリストに遣わされました。 キリストの時代は、この状態は問題になりません。 なぜなら旅人に正しいもてなしを与えることは イスラエルの民にとって避けられない義務です。 アッシジのフランシスコ、ガンジー、マザー・テレサなどは、自分の意志で貧しくなって 彼らは乏しい手段だけで自分の使命を果たしました。 神の言葉が人の心に触れるには、貧しさが必要かも分かりませんが、それだけでは十分ではありません。 今日、福音を告げる為に 神が遣わす人々は、現代の手段を利用して電子工学、科学技術やコンピューターのソフトウェアを使います。

   恵みに満ちた全能の神は、いつも弱さを選ぶ貧しい神です。 イエス自身も「豊かであったのに貧しくなられた。 それは、彼の貧しさによって、わたしたちが豊かになるためでした」(2コリント8,9)。 パウロは 数えきれない程の福音宣教的な成功にも関わらず、自分の弱さに対して嘆いていました。 イエスは 彼に次のように答えました。 「私の力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのです」(2コリント12,9)。 パウロは この教えを理解してから コリント人への手紙の中で次のように証ししました「私は弱いときこそ強いです」(2コリント12,10)と。 ですから自分たちの弱さを恐れてはいけません。 人々の心に触れる為に 遣わされている私たちの弱さを通して 神は力強く働きます。

   イエスは、二人ずつ、自分の弟子を遣わします。 イエスが一人でし始めたことを 弟子たちは、彼の名によって 同じ信仰の交わりのなかで 一緒にそれをし続けるように責任を受けています。 神の国を告げ知らせる という 唯一の目的を目指して 彼らは、手段の貧しさの中で、その使命を行います。 丁度、イエスが神と人々の間の仲介者であったように 遣わされた弟子たちも 天と地の間の仲介者とならなければなりません。

   昔から選ばれた人々を通して 神はご自分を啓示しました。 例えば、アブラハム、モーゼ、そして全ての預言者を通して、神は特に「人間と同じものになられた」(フィリピ2,7)イエスを通してご自分を啓示しました。 父、子、聖霊である神は、今も選ばれ続けている素朴な男と女の弱さを通して ご自分を啓示しようとします。 預言者アモスは、家畜の飼い主でした、最初の弟子たちは漁師でした、パウロはテントを作る人でした。 ご自分の言葉を伝える為に 神がこのような人々を必要としています。 欠点のある人々や簡単に過ちを行う人々を遣わすことによって 神は 人々がお互いに 回心させ合うように望んでいるからです。

   「あなた方の所に行ったとき、わたしは弱っており、恐れに取りつかれ、ひどく不安な状態でした。 わたしの言葉も宣教も、説得力のある知恵に溢れた雄弁によるものではなく、神の霊と力が示す証明によるものでした」(1コリント2,3-4フランシスコ会訳)と、パウロは書きました。 使徒パウロにとって、伝える人々の評判が高いからと言って 福音を信じることではなく、福音を神の言葉として、ありのままに受けなければなりません。 イエスが 弟子たちに悪霊に対する強制的な権能を授けるとき 彼らに 人間に対する同じ力を授けませんでした。 弟子たちの教えを聞く人々は、自由にそれを受けることも 否定することもできます 。ナザレの人々に見捨てられたイエスは、強制的には何もせずに、救いの同じ良い知らせを伝えるために 直ぐ他の町や村へ出発しました。 キリストのように弟子たちも 救いの知らせを聞く人々に 選びの自由を認めなければなりません。 具体的に言えば、福音の知らせを伝える義務を受けた人は(私たち皆です) 他人に対する深い尊敬を現わすのは肝心なことです。

   弟子たちは、多くの悪霊を追い出しました。 ご存知のようにiいのしし狩りの期間がとても短いです。 しかし、悪霊狩りは一年中です。 即ち、誘惑者との戦いが 終わりがありません。 一番知られている悪霊は、次のように呼ばれています。 支配、軽蔑、高慢、利己主義、自己愛、偽り、嫉妬、不正、憎しみ、と悪口です。 信仰、赦し、互いの尊敬と隣人愛によってこれらの悪霊どもに打ち勝ちましょう。

   弟子たちは、何も持たない状態に置かれているのは 彼らを歓迎する人々に 聞かせたメッセージの内容を 具体的に実現させるためです。 弟子たちは、どうしても 人々のもてなしを願うから 彼らを招く人は ある意味で 回心するの招きに答えます。 というのは、一杯の水、パンの一切れ、着替えの服、憩いの場を弟子たちに与えることこそ 回心することであり、同時に、具体的に 神の国に入ることでもあります。 回心するとは、自分を捨て、他人を選ぶことです。 言い換えれば、キリスト自身を選ぶことです。 アーメン。



           年間第16主日B年     2012722  グイノ・ジェラール神父

         エレミア23,1-6  エフェソ2,13-18  マルコ6,30-34

    疲れには2種類あります。 まず自分たちの使命を果たすために、長く歩いた弟子たちの疲れです。またサマリアの女と出会ったヤコブの井戸の傍に座って、へとへとになったイエスご自身の疲れです。この種類の疲れに対して、イエスは度々ご自身でなさる事を 弟子たちに提案します。 つまり人里離れた所に行って、沈黙と休息を深く味わう事です。

  休む事は 福音宣教の活動のため、全生涯のためにとても役に立つのです。 神の子であるイエスが度々人々から離れて、休む事を選ばれたとしたら、まして私たちも彼を真似る必要があります。 しかし日常生活のリズムのせいで、私たちはなかなか休む時間を見つけられません。 自分の人生と仕事の意味を失わないように、休む事は肝心です。 また沈黙と休息のうちに祈る事によって、私たちと 私たちが考えている計画に対する、神の意志を知るようになります。

  もう一つの疲れの種類があります。 仕事が与える疲れよりもこの種類は、沢山の人々に及ぶ とても担い難い、気力を失わせる疲れです。 この疲れは 見捨てられ侮辱されている人々や、何をして良いか全く分からない人々や、そして自分の人生の意味を 既に失っている人々の疲れです。 特にこの様な疲れは、イエスに従っている群衆の疲れです。 イエスがその群衆を憐れむのは、「人々が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているからです」(マタイ9,36)

  この様な人々に イエスは長く色々と教え始めました。 イエスはこの人々に対する ご自分の憐れみを現すだけではなくて、彼らに教え、彼らを癒し、更に養います。 特に神の言葉であるイエスは、人々に聖書を悟らせるために、彼らの心の目を開こうとしています(参照ルカ24,45)。 今もイエスは私たちに、色々と教え続けています。 何故なら イエスが来られたのは「私たちが命を受けるため、しかも豊かに受けるためです」(参照ヨハネ10,10)

  昔、預言者エレミアは政治的、宗教的な責任を持っていた人々を、厳しく咎めていました。 彼らは自分の命を救おうと 無駄に苦労した結果 イスラエルの民を見捨てて、人々を分裂させました。 当時バビロニア人とペルシャ人が、イスラエルの地を占領して、豊かな物を略奪し 人々を奴隷にしました。 キリストの時代に ローマ人が丁度、同じ事をしているのです。 しかしその時代に イスラエルでは、羊飼いと呼ばれている指導者である律法学者、レビ人、大祭司、ファリサイ人など まだ大勢がいました。 彼らは皆、たっぷりのお金を取って、まじめに正しく教えていました。 しかし、預言者エレミアの時代と同じように、この指導者たちは 貧しくて、素朴な人々に教えるよりも、自分たちの評判と収入を気に掛けていました。 そのために群衆は自然に彼らを無視して、イエスの後に走り込んで来ました。 これらの小さな人々は、イエスの内に 無償で、効果的に、具体的に 世話をしてくれる人を見つけたからです。 そういう意味から、イスラエルの民を治めると思い込んでいる偉そうな責任者が 多いにも拘らず、イエスは 御自分の傍に集まってきた群衆を「羊飼いのいない羊のように」見ているのです。

  群衆はいつも 不安定なものです。 群衆は移り気な人々で作られ、来る人、帰る人が絶えず 入れ替わります。 教える事でイエスは、彼らに休息の時と 神の言葉を聞くチャンスを与えます。 テレビやメディアを通して、世界のニュースを知る事は良いのですが、神の声に耳を傾ける方が良いのです。 何故なら その時は 恵みと祝福の時であり、人の利益になるからです。

  イエスが色々と教えているのは、きっと群衆の質問に答えるからです。 青草に座っている人々は 聞く事、教えられる事、癒される事、そして養われる時を ゆっくり味わうのです。 そこでイエスは 彼らの全ての飢えを満たすでしょう。 それは 平和、正義、赦し、愛への飢えであり、また体と魂の回復の飢えでもあります。 イエスは 自分のために生きるのではなく、全ての人のために生きる良い牧者です。 今日、イエスは弟子たちと共に 休もうと決心しましたが、押しかける群衆のために、彼は自分の計画を捨てて、すぐ彼らの世話に心を尽くします。 イエスは確かに 良い羊飼いであり、全ての人の僕であり、神の心に適う人でもあります。 もし私たちがキリストの弟子であるなら、キリストに倣って私たちも皆、人々の僕とならなければなりません。 ですから、いつも 何処でも皆の世話をする役に立つ僕の立場を失わないように、充分に休む事を学びましょう。 アーメン。



      年間第17主日 B年  2012729    グイノ・ジェラール神父

           列王記下4,42-44 エフェソ4,1-6 ヨハネ6,1-15

    これからの5週間の間に、聖ヨハネの福音が述べるパンの増加とこの奇跡に対して、イエスが与える重大な教えを読んだり、聞いたり、黙想したりするようにと、典礼が私たちを招いています。 他の宗教の聖なる本と違って、聖書だけが食べる必要性について 絶えず強調しています。 創世記の物語から 黙示録の本の終わりまで、聖書の中で次の2つの質問が、ずっと私たちに問いかけます。 それは先ず「何を食べようか?」と次に「神の国の宴会に参加するように、その招待に応じるでしょうか?」という二つの質問です。 全人類を救う神にとって、毎日のパンの問題は 肝心な問題です。 そういう訳で、イエスは父なる神に向かって「今日の日のパンを、今日与えて下さい」と願うように教えました。 更に司祭たちは、たえず次のように宣言します。「神の子羊の食卓に招かれたものは幸いです」と。

   日常の糧は、人の命と深く結ばれています。 食べられない人は死んでしまいますし、食事の分かち合いなしには、絶対に人々の間に愛は存在出来ません。 預言者エリシャとイエスが行われた パンの増加は、確かに愛、命、分かち合いの明白なしるしです。 このパンの増加の奇跡を通して イエスは、大勢の人に教え、回復の恵みを与え、皆を養い、満腹させました。 全ての人が父なる神に感謝する事と 神を愛する事が出来るように、イエスは人間が 霊的にも、身体的にも健康で生きるのを心の底から望んでいます。 そして父なる神は 私たちの為に、私たちによって、私たちと共に、私たちの内に実現なさる救いがどんなものであるかを 私たちがよく理解するように 特にイエスは望んでいます。 ですからこれからの4つの日曜日を通して、イエスの教えに耳を傾けましょう。 なぜなら、4週間に渡って、イエスは「命のパン」「天から降ってきた生きたパン」「永遠の命を与えるパン」である事と、自分の体と血は真に日々の糧である事を長く説明しますから。

  「あなたは顔に汗を流して、パンを得る」と神はアダムに言いました。 その理由でフィリポは、群衆を養う為のパンの数を、働く日に基づいて考えていました。 フィリポは、「めいめいが 少しずつ食べるためにも、200日分の賃金に足りないでしょう」(ヨハネ6,7)〔注1参照〕と答えました。この答えこそ 大人らしい考え方です。 というのは、仕事をしながら大人は、生活費を稼ぎます。 子供達は、働かずに生きる為に必要なものを、すべて大人からいただきます。しかしイエスは、言われたように「天の国は子供のものであります。 また子供に似る人のものであります。」(参照マタイ19,14 マルコ10,15) そのためにある少年が、ただ1人で捧げた5つのパンと2匹の魚で、:5千人以上の大人を養うことが出来ました。

   パンが人間に与えられたのは、分け合うためです。 「分ち合うパン」とは、いつも人の集まりの印(しるし)です。 むしろ、人々が飢えているのに、山ほど食べる人がいれば彼らのパンは分裂の印(しるし)に変化します。 パンの増加の奇跡を通して、イエスは次の事を考えています。 即ち 与えれば与えるほど、パンを増やします。 私たちの持っているものに対して、同じ事が言えるでしょう。 御存じのように、今日5千人ではなくて、何千万の人が生きるための食物がありません。 彼らを助けるためには、きっと私たちが持っていない 何トンもの食物と何千万リットルの水が必要です。 それにも関わらず、イエスは真面目に私たちに願っています。 「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」(マタイ14,16)。 ですから、飢えている人が 日々の糧をいただくように、私たちは何をしたらよいでしょうか。 祈る事や分かち合う事だけでは足りないからです。

   確かに、私たちは、あまりにも何も出来ません。 しかし、私と共に毎日おられる神により頼めば、すべてが可能となります。 勿論、新しい奇跡を行うように 神を試そうとしてはいけません。 しかし、私たちはよく知っています。 神が、飢え渇いている人々や病人、外国人、囚人、迫害された人々(マタイ25,25)の内におられるという事を。 ですから、その具体的な効果を見なくても、彼らのために捧げられた私たちの祈りは、神に、彼らのニーズを具体的に満たす可能性を豊かに与えます。 ところで、それを実現させる為に私たちは先ず、強い信仰と真の愛をもって、キリストの体をいただくことがとても大切なことです。 それは、私たちを通して神が他人を具体的に助ける為に、唯一の肝心な条件です。 イエスが、私たちに与える命のパンは、永遠の流れの中に私たちを入れさせます。 そして、この命のパンは、キリストの神秘的な体となった私たちを、世界中に苦しんでいる人々のとっても近い兄弟姉妹とします。 言いかえれば、信仰と愛の内に、キリストの体を受けることによって、私たち自身が「命のパン」となります。 従って、私たちは実際に 数えきれない程の群衆を養う事が出来ます。 その故に、私たちは 効果的に、神の救いの業の協力者となるのです。 アーメン。

   注1:1デナリオンは、ローマ時代の労働者の1日分の賃金にあたります。



      年間第18主日    2012-8-5 B年         グイノ・ジェラール神父

          16,2-4 12-15   エフェソ4,17 20-24    ヨハネ6,24-35

    パンの増加の奇跡の直ぐ後、イエスは一人で山に退きました。 翌日に彼を探していた群集は、湖の向こう岸のカファルナウムで彼を見つけました。 「ラビ、いつここにおいでになったのですか」という彼らの質問にイエスは答えませんでした。 むしろ キリストはもっと大切なことについて語り始めます。 イエスは人間に相応しい役に立つものごとや、彼らの飢えと渇きや彼らが持っている希望について話します。 イエスはいつも聞きに来た人たちの理解力に応じて教えます。 ご自分を探しに来た人々が、飢え渇きとパンの意味について考えるように イエスはわざと物質的な要求と霊的な望みを対立させます。 なぜなら、キリストを囲んでいる群衆が物質的な要求しか持っていないことを イエスはよくご存じですから。 その理由で群衆は、イエスを理解せず、イエスを信じることが全くできません。

  そこでイエスは、彼らに次のことを説明します。 彼らが探し求めるのは神の国でもないし、信仰を与えるしるしの識別でもありません。 群集がイエスの傍に来る理由は、ただ、癒しと利益のある物質的なものだけです。 人々の様々な問題を解決する限り、彼らはイエスに従うので彼を王にする誘惑に単純に落ちるのです。 しかし、イエスが解りにくいしるしを与えようとする時に、或いはまた厳しい要求をする時に、群衆も彼の弟子たちもあっという間に彼をおいて去ります。

  イエスは人の要求と望みを廃止することではなく、むしろそれらを拡大するように願っています。 ある意味でイエスは群集に次のように語ります「日ごとのパンはよいけれども、永遠の命を与えるパンはもっとよいです。 楽な生活で満足しないで下さい。 物質的な満足は必ず消え去るが、永遠の幸せはずっと続きます。」と。 このように群集が永遠に残る上にあるものを探し求めるようにイエスは誘います。(参照コロサイ3,1

  私たちは皆幸福を探し求めていますが、この幸せを上手に説明できません。 信者である私たちは、キリストを見つけることによって 幸福を見つけることだとほんの少しでも解っています。 しかし、イエスの時代のユダヤ人と同じように イエスが私たちの物質的な要求を満たすように願いがちです。 残念ですが、イエスは私たちが望んでいるものよりももっと与えたいのです。 自分の内に霊的な望みを生み出すこと、あるいは聖霊に導かれた祈りの生き方、また神の現存で満たされた内面的な生き方を探し求めることも私たちにとって至難の業です。 さらに私たちは神の正当な望みを無視して、たとえば神が人々を愛しているように彼らを愛する掟を実践すること、赦すことと非難しないことを私たちはなかなか実現できません。 その事をはっきり認めましょう。 私たちは神を喜ばすことを全く考えません、そのうえ神が私たちに対して無関心であることを厳しく神を咎めます。

  私たちが生き残るために最も必要なものを探し求めるようにキリストの教えは、私たちを励まします。 私たちの体が衰弱していかないように栄養となる食物が必要です。私たちの魂に対しても 同じことが言えるでしょう。 日本では迫害の恐れを抱かずに、私たちは自由に信仰に生きることが出来ます。しかし、多くの国では自分たちの信仰を分かち合うために、また生き残る為に、信者たちが自分を隠さなければなりません。 彼らの信仰を支える為にいったい私たちは信仰の兄弟姉妹の為に祈っているでしょうか? また司祭たちの不在は異邦人の迷信を引き寄せる霊的な飢饉(ききん)を生み出すことを充分に皆さんが知っているでしょう? 神がたくさんの聖なる司祭を送って下さるように 私たちは確信を持って祈っているでしょうか。

  そういう訳で、イエスは日常生活と永遠の命とを対立させます。 日常生活にとっては、日毎の糧が必要です、霊的な生き方にとって特別な糧が必要で、それは天から降ってきたパンである即ちキリストご自身です。 イエスは食物としてご自分の体と血を差し出すと群集に言った時に、彼の弟子たちも群衆も非常に驚いて躓(つまず)きました。 私たちはキリストの体が私たちの糧だと知りすぎているので、それを知ってもあまり感動しません。 確かに「いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6,27)と招くイエスは、とても正しいです。 ですから、知恵で満たされたキリストの勧めを信頼を持って心に留めましょう。 この言葉が、私たちの人生に意味を与え、そして永遠に残る上にある物事をもっと熱心に探し求める助けとなるでしょう。 そうです。 「何よりもまず、神の国を探し求めましょう。そうすれば、必要なものはみな加えて与えられる」(マタイ6,33)からです。アーメン。



        年間第19主日B年     2012812日   グイノ・ジェラール神父

     列王記上19,4-8  エフェソ4,30-5,2   ヨハネ6,41-51

     王妃イゼベルの敵意を恐れて、預言者エリアは遠くまで逃げました。 お互いに批判し合っている エフェソ教会のキリスト者に、この態度をすぐ止めるようにパウロは願っています。 イエスはご自分の話を聞いて、理解せずに 不平を言う人々を咎めます。 私たちは 冷静に話す事がとても難しくなった世代に生きています。 互いに聞き合うために、忍耐、謙遜、特に自分を自制する事が必要です。 人は誰であろうと、言われた事に対して異議を唱える自由がありますが、それをする時、どうして叫んだり、身振りをしたり、そして無礼な言葉で わめき散したりするのでしょうか? これこそパウロが咎めている エフェソ教会の信者の態度です。 私たちの考え方が、他の人と違っている時 どうして黙ったり、必要な反論を逃げたり、人目を避けたりするのでしょうか? これは 列王記が述べている預言者エリアの 幼稚っぽい態度です。

     叫んだりする態度と 悪い沈黙の内に自分を守る態度との間に、皆が、共に対話しながら成長するように、正しい態度を見つけなければなりません。 互いの良い聞き方から、いつも真理と相手への尊敬が生まれてきますから。 イエスは 人々に反対される時に怒らず、反論者を辱めませんでした。 しかし、イエスこそは「真理と命のことば」です。 また、皆によって見捨てられた時にも キリストは意気消沈しませんでした。 イエスは、いつも自分を自制しました。 自分を理解しない人々や、自分を侮辱する人々に対しても、イエスは絶えず尊敬を表しました。

    そのために、今日、イエスが教える事に 耳を傾ける必要があります。 ひどく絶望した預言者エリアは、天から降って来たパンによって力付けられ、このパンのお陰で 長く歩いた後、神と共に親密に話す事が出来ました。 イエスが 私たちに与える命のパンは、私たちの内に同じ効果をもたらします。私たちは試練の中で信仰の道を歩んでいますが、御聖体のおかげで、必ず父である神との親密な出会いを味わう事と、神を見る事も出来るのです。 この目的を目指して、私たちが 度々 キリストの体を頂く事が必要です。 キリストを信じる事は、信頼のうちに行われている旅路であり、そして、私たちは何処へ行くのかが よく分かっています。 言いかえれば、キリストの体で自分を養う事は 熱心に、力強く、愛の完成を目指す事です。 それを絶対に忘れないように 努力しましょう。

    私たちが神の方へ行くが出来るように、神は私たちの方へ来られました。 イエスの内に、具体的に 人間への神の動きが実現されています。 イエスは天から降って来たパンであり、同時にイエスだけが 父の顔を見た人でもあります。 イエスは 父によって私たちに遣わされています。 肉となった 神の言葉であるイエスは 私たちの前に、外面的に、立っています。 そこでイエスへの 人間の動きが始まります。 内面的な新しい生き方を与えるこの動きの出発点は、イエスの方へ 全てを引き寄せる神ご自身の内にあります。 全ては神から来ます。 全ては神の内にありまる。 全ては神のためです。

    私たちが命の充満を持つように、イエスは糧として 自分自身を与えようとします。 神を知るために、門であるキリストを通して 私たちは通らなければなりません。 聖体拝領によって キリストを歓迎する人は、同時に キリストを遣わした神を歓迎します。 キリストの体となった人は、同時に 自分自身が命のパンとなります。 この人は イエスと同じように「真理について証しするために](ヨハネ18,37)御父からこの世に遣わされています。 今申し上げた事を理論的に説明するのは 至難の業です。 神だけが、ご自分について語る事が出来るのです。そう言う訳で「皆、神によって教えられる」とイエスは言いました。 私たちは皆、命の神秘の前に置かれています。 信仰の内に私たちは 真の食物としてこの神秘を受け入れます。 同時に、神ご自身との親密な生き方として 私たちはこの神秘を受け入れます。 確かに、主は 私たちと共にいて、私たちは 神の内にいるのです。 神の恵みが皆に与えられています。 しかし、私たち一人ひとりは、それを拒む事も出来るし、或いは 神との命の交わりを深めるために、その恵みを承諾する事も出来ます。

    聖霊が 私たちに神の風味を与えるように 祈りましょう。 「強い者のパンに養われて」(78,25)父の方へ歩み続けながら いつか「ありのままに神を見ることを」(1ヨハネ3,2)私たちは知っています。 キリストの言葉と命のパンで養われている私たちの日常生活が、その完成と充満さを 神ご自身の命の内に見つける事を 良く理解しましょう。 これこそ 私たちの信仰と希望です。 これこそ 私たちの人生の目的です。 これこそ 私たちの救い主キリストによって、神ご自身が私たちに教える真理です。 アーメン。



    年間第20主日          2012819日     グイノ・ジェラール神父

           箴言9,1-6   エフェソ5,15-20   ヨハネ6,51-58

    「浅はかさを捨て、知恵の道を進みなさい」と箴言の本は願っています。 「聖霊によって満たされるようにしなさい。」とパウロは勧めています。 イエスは聞く人々にショックを与える言葉を宣言します。 「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ あなたたちのうちに命はない」と。

    イエスは私たちにご自分の体を捧げます。 これこそ知恵のパンです。 またイエスは聖霊の泉であるご自分の血を飲み物として与えます。 命のパンについてのイエスの教えは、ご聖体の神秘に私たちの知恵を開きます。 ご自身を糧として与えようとするイエスは、神の命が私たちのうちに注がれるように 私たちが聖霊で満たされることを望んでいます。 事実、イエスは違った言い方で箴言の教えを繰り返します。「知恵の弱い者は、私のパンを食べ、私が混ぜ合わせたぶどう酒を飲みなさい、命を得るためです」。 キリストの体を食べること、彼の血を飲むことは、神ご自身の命と聖霊の知恵を与えるのです。 そして私たちはキリストの体の部分となるのです。

    今日の短い箇所を通して、イエスは6回繰り返して避けられない必要性として ご自分の体を食べ、ご自分の血を飲むことを強く願っています。 また、9回繰り返して“命”という単語をイエスはよく利用します。 一体、イエスは何を教えたいのですか。どうしてそんなに同じことを強調しているのですか。 事実、ご自分と共に一致するように イエスは私たちを招いています。 確かにイエスは最も意味深い出会い、即ち、親密な命の交わりに私たちを誘います。 糧として、飲み物としてキリストを受け入れることは、強い望みを表します。 聖パウロはこの望みをこのように纏(まと)めました。 「もはや私ではなく、キリストこそ 私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2,20)。

    車のガソリンを満タンにするためにガソリンスタンドへ行くように 私たちはミサへ行ってはいけません。 もし、私たちにとってミサが自分の内に霊的なエネルギーを満タンにするためであるならば、私たちが信仰、希望、愛のうちに進歩しないことは当然です。 むしろもし、ミサに与ることによってキリストと一致したいということが 私たちの意志のしるしであるならば 神の命は私たちを完全に変化させるでしょう。 その時、私達は 昔 聖体拝領をするために近寄って来た人々に言われた聖アウグスチヌスの言葉実現するでしょう。 それは「あなたはいただいた方となりなさい」と。 世の救いの為にキリストの御体と御血となることは、イエスが私たちに委ねた貴重な使命です。

    眠りから覚めて神が自分のために造られたエバを見たアダムの最初の言葉は「彼女は、私の肉の肉」(創2,23)でした。 神に感謝しながら聖体をいただく時、イエスも私たちもアダムと同じ言葉を叫ぶべきです。「主よ、まことに私はあなたの肉の肉であり、あなたも私の肉の肉です」と。 この世にあって私たちがキリストの命に生きるように 神は望んでいます。 すでに永遠の命が私たちに与えられていますが、体の復活は神の国で与えられるでしょう。 と言うのは、天において私たちがキリストの体に非常に似ている栄光の体を持つからです。 洗礼を受けた時、私たちは既に衣としてキリストを着ました(ガラテヤ3,27)。 聖体拝領によって私たちはキリストの体になり、さらに信仰生活によって全てにおいて聖霊が私たちをキリストに似る者とします(フィリピ3,21)。 その結果、天に入る時 私たちはありのままキリストを見ることが出来るのです(1ヨハネ3,2)。

    私たちの永遠の幸せが私たちの手の中にあります。 キリストの体をいただく度に、この事実をよく考えましょう。 何という幸せ! 何という誉れ! 全てを治められる神を私たちは,自分の手の中に持っています。 世の終わりに私たちを裁く神が、私たちの手の中に弱くなって謙遜にご自分を委ねられます。ですから自問しましょう。 無関心でいつまで私たちは習慣的に聖体拝領を続けるでしょうか反対に,この聖体拝領によって、神に返すべき尊敬と愛を私たちが真心から示すのでしょうか もし、自分のうちに永遠の命を持ちたいのなら「知恵の道を歩みましょう」そして「聖霊の知恵が私たちを満たすように」願いましょう。 とにかく、「ご自分の栄光を讃えるために、私たちをキリストの神秘的な体とされた父なる神に 絶えず感謝しましょう」(エフェソ1,14)。 アーメン。



          父年間第21主日B年    2012826日    グイノ・ジェラール神

       ヨシュア24,1-2a 15-17 18b  エフェソ5,21-32  ヨハネ6,60-69

     私たちは皆、選びをするように、そして生涯に渡ってこの選びの重大な結果を受け入れるように、招かれています。約束された地に入ったばかりのイスラエルの民に、ヨシュアが「選びなさい」と要求します。周囲にある文明と文化によって、彼らが誘惑される危険が多いので、イスラエルの民が 神に対して忠実であるように、絶えず 中東アジアの盛んな文明と魅力的な宗教を退ける必要があったからです。神の民は一つの声になって「主を捨てるよりも、私たちは死んだ方が良い」と叫びます。 イスラエルの民は選んだことを、揺るぎない忠実によって、この選びの全ての重大な結果を 受け入れなければなりません。 残念ですが、聖書はずっと神の民の不忠実さを述べ続けるのです。

    命のパンについて、イエスの話を聞いた人々に イエスも「選びなさい」と願います。キリストの言葉が躓きとなって、弟子たちを含めて大勢の人々が離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなりました。イエスは12人に「あなたがたも離れて行きたいか ?」と彼らが自由に選ぶように誘います。そこでペトロが皆の名によって、弟子たちの忠実さを宣言します。 「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか?12人の弟子たちは キリストの後を歩む事を決めましたが、その選びの重大な結果も 受け入れなければなりませんでした。 残念ですが、受難の時、ペトロがイエスを否定し、ユダはイエスを引き渡し、他の弟子たちは皆 逃げ去りました。

   エフェソへの手紙の中で、パウロは 結婚の契約によって 男と女が結んだ選びについて語ります。 残念ですが、この話を理解出来ない 現代の婦人たちは、それを聞いて腹立ちます。 しかしこの話は 非常に肝心な教えです。今日でも 遺憾な事ですが、婦人たちは 自分の主人の支配の下に置かれていす。 パウロの時代は全ての女性は生まれてから 全く個人的なアイデンティティーを持っていませんでした。 つまり「だれだれの娘」であった状態から「だれだれの妻」或いは「だれだれの未亡人」の状態となりました。 特にギリシャの文明では、妻は自分のために愛されずに、ただ「主人の子どもたちの母」として認められていたのです。 これに対して、パウロは何も出来ませんでした。 この事実は社会的な当然の決まりでした。 それに対して、パウロは男性の伝統的な決まりに、新しい息吹を吹き込みます。「夫たちよ、キリストが教会を愛しているように、自分たちの妻を愛しなさい」と。

  今日では、結婚する人は互いに互いを選ぶでしょう。 そこでパウロは二人が互いに決め合ったこの根本的な選びは、彼らの長い生涯の内に揺るぎない忠実さを要求している事を説明します。 二人の愛が人類に示された キリストの愛の印となるのです。 夫 或いは 妻を選びながら、男性と女性は生涯に渡って、いつか出会う全ての魅力的な 他の男性や女性を退ける約束をしましたから。 パウロが夫婦に願っている事は、既にヨシュアが、イスラエルの民に自分たちを囲んでいる魅力的な国とその神々を 誓願によって退けるように強く願ったこととは 同じ理由です。 またキリストも、弟子たちに同じ願いをします。 「人はだれも二人の主人を愛する事、仕える事は出来ません。」(参照マタイ6,24)

  大切なのは、自分がした選びではなくて、むしろこの選びが引き寄せる日毎の忠実さです。 毎日 キリストが私たちに問いかけます。 「あなたがたも離れて行きたいか?」と。 この様にして 私たちが自分の選びを新たにし、この選びの動機を深めながら、イエスと共に歩み続けるように、イエスは私たちを励まします。 何故なら、晩餐の時、いくらペトロが確信をもって「たとえ皆が あなたを捨てても、私は決して捨てません。」(参照マタイ26,33)と宣言しても、何時間も立たない内に、彼はイエスも仲間たちも 全く知らないと強く誓いました。 ですから、選びはいくら誠実なものであっても、いくら新たにされても、非常に足りないものです。 私たちが好きなものだけではなくて、この選びがもたらす全てを 承諾しなければなりません。 と言うのは、ペトロはイエスがメシアだと良く分かりましたが、彼はメシアの人生の意味と 目的について、聞こうとも理解しようとも、一度もしませんでした。 それは私たちを 死と罪の支配から解放するため、そして彼の御体と御血が真の糧となるように、メシアはどうしても 皆のために死ななければならないという事でした。

   全てが上手く行く時、キリストに対して 忠実である事は簡単です。 しかしほんの少し、つまらない試練が急に現れる時、十字架の足下まで キリストに従う事は難しくなります。 後ろを振り向いて、前にもう進みたくないと言う誘惑が襲ってくる時 私たちがイエスの言葉を聞く恵みが与えられますように。 「あなたも私から離れて行きたいか?」と。 それを聞けば、私たちはすぐ 次のように答えましょう。 「主よ、私は誰のところに行きましょうか。むしろ私を助けに来てください。私が試練の大水に水没する前に、早く私の手を掴んでください。」(参照マタイ14,30-31) アーメン。
                      



        年間第22主日B年    201292     グイノ・ッジェラール神父

    申命記4,1-26-8  ヤコブ1,17-1821-2227  マルコ7,1-814-1521-23

    神の掟を守る事によって、人に知恵と賢明さを与えられていると モーセは教えています。 神の言葉が、神の御前で私たちを清い者と非の打ち所のない者にしながら、私たちを救うということを使徒ヤコブは説明しています。 しかし神の言葉を忠実に行うため、又すべての掟を守るために ファリサイ派の人々が気を配っているにも関わらず、キリストは彼らの偽善を厳しく咎めています。

    ファリサイ派の人々は、自分達が言うことを全く行わないから(マタイ23,3)イエスは彼らの振る舞いを非難します。 確かに彼らの行いと言葉は 自分たちの心の思いを表わそうとしません。 ある日イエスは、ファリサイ派の人々に対して 彼らは偽善者だけではなく、盲目的な人でもあると表現しました(マタイ23,16-17)。 確かに偽善と盲目はいつも繋がっています。 偽善者は人々を騙せば騙すほど 自分自身も騙すようになります。 イエスにとっては偽善というものは、目を眩ませる一つの偽りです。

   ファリサイ派の人々は、神に栄光を帰するためではなく自分たちの評判を上げるために掟を守っているのです。 彼らの信仰生活は、神との親密な関係を結んでいる生き方ではありません、ただ外面的な見かけ倒しの生き方です。 神の命の言葉と全ての掟は、人々が謙遜になるように教えています。 不思議な事に、神の掟を真面目に守ろうとしているファリサイ派の人々は、逆に高慢な人になってしまいます。

    外面的で目にみえるが、内面的な事実を表わす時だけ値打ちがあります。 ファリサイ派の人々は、外面的な行いを上手に果たしています。 彼らの唇は神の掟を絶えず唱え繰り返しますが、彼らの心は神から遠く離れています。 そこでイエスは、清くなるために手を洗うことや自分の体に水を振り掛けることだけでは、不十分だとファリサイ派の人々に教えています。 自分の体に水を振り掛けることや手を洗うというような外面的な行いが、自分が本当に心の清い人になりたいという内面的な望みを表わさなければなりません。 昔、それを具体的に思い起こすために、ミサ祭儀の始めに司祭は、信者達に聖水を振り掛ける習慣がありました。 今日でも、ミサ毎に司祭が自分の手を洗いながら次の言葉で祈ります。 「主よ、私の汚れを洗い、罪から清めて下さい」と。

    外面的でうわべだけの宗教的な動作や、また、律法学者が教えている過大な言い伝えなども預言者たちは、度々強く非難しました。 「いけにえを捧げることを止め、律法を口にすることも止めなさい。 むしろ回心するために、あなたたちの心を主に捧げなさい」と すべての預言者が宣言しました。 祈りと礼拝は、回心を実現する時だけ値打ちがあります。 私たちは自分の普段の生活を変えたくないなら、ミサに与かったり、賛美を歌ったり、一緒に祈ったり、 神の言葉を聞いたり、断食したり、ロザリオを唱えたりすることが、一体どんな意味があるでしょうか? これらの外面的なうわべだけの宗教的な行動は、ファリサイ派の人々の偽善によく似ているものではありませんか? 「武庫之荘のキリスト者は、口先だけで私を敬うが、彼らの心は私から遠く離れている」と、神が私たちに対して言わないようにしましょう。

    私たちを生かす泉が、神の内にもはや置かれていないなら、私たちは神との関係のない、外面的な生き方をおくる危険が多いです。 使徒ヤコブは次の様に言いました。 「良い贈り物、完全な贈り物はみな、上から光の源である御父から来るのです。」 私たちがここに集まったのは、自分たちの心を新たにするためです。 「人間の心から悪い思いが出てくる」と 今日イエスは、はっきりと教えました。 神の言葉を注意深く聞く事によって神の愛が私たちを実際に清め、神の御前で私たちを非の打ち所のない者とします。 そして、神が私たちの心にご自分に対する無限の愛を注ぎます。 神の愛が、神の傍に戻る可能性と同時に戴いた全ての恵みに感謝する可能性も与えます。 ですから神を見るように、唯一の条件である心の清さを互いのために切に願いましょう。 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは 神をみる」(マタイ5,8)。 アーメン。



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